承認欲求のブラックホール

 久しぶりのブログ更新である。言わずもがな、卒論で非常に忙しかったため書く暇がなかったのだ。そして今日、無事に卒論を提出することができた。7万字以上、100ページ超えというなかなかの文量になった。非常に長いので暇な時に読むことをお勧めする。

  今回のブログでは卒論の裏話というか、卒論に取り組んでいた時の私の様相について書くのであまり面白くはない。というか、ハッキリ言って暗い内容である。精神的に今日は落ち込んでますという人間は読まない方がいい。あまり読んでいて気分のいい内容ではないので、後々消す予定である。

  卒論には去年の今頃から取り組んでいたので約1年間時間を費やしたわけだが、特に精神的に参っていたのは今年の10月~12月の上旬である。オブラートに包まずに言うと、つい数週間前まで非常に精神を病んでいたし生きる気力がなかった。卒論書くのってそんなに大変なんだと思われそうだが、卒論を書くこと自体はさほど大変ではない(楽でもないし簡単でもないが)。では私は何に苦しめられたのか。ずばり、他人と自分との比較である。この思考の癖に気づいてから精神が安定したので、大方見当は合っているだろう。

  ここ2ヶ月の生活は、起床し適当に味噌汁を作って飲み、大学に行き論文を書き、食べる量が多いと眠くなり執筆に集中できなくなるので昼はチョコレートか飲み物で済ませ、また論文を書き、合間にブログを書き、晩御飯を食べてからバイトに行き、バイトから帰ってきてまたパソコンを開き執筆...の繰り返しだった(予定が入ればその都度変えてはいたが。)恐らく、ゼミの中では1番卒論の執筆は進んでいた。文量も1番多かった。それなのに、私は自分を褒めたり認めたりすることができなかった。自分と優秀な友人をひたすら比較し、自身を卑下し、先生から褒められないことを嘆き、誰からも認められない状況を恨んだ。ひどく虚しくなって、論文を書きながら何度も泣いた。こういう内容の話はあまり書きたくはないが、これが私という人間の一面でもあるので仕方ない。

  ブログを書かなくなった時期から最大級に病み始めたので、11月の下旬から12月の上旬がピークだったのだろう。夢に卒論が出るようになり、食欲が失せ始めた時期だった。ちょうどそのあたりの時期に、余裕があるなら執筆が遅れている人の面倒を見てくれと先生から頼まれた。どこをどう見て余裕があると判断したのかは知らないが、その瞬間、私の中で何かが決壊した。なぜサボってきた人間の面倒を見なければならないのか意味が分からなかった(正直今でも分からないが。)ちょうど先生からメールがきたとき、私はバスに乗っていたのだが公共の場にも関わらず、もうどうしたらいいのか分からなくなって涙が止まらなくなった。が、しかし、承認欲求の下僕と化していた私は自分の論文にも精神にも余裕が無かったのにも関わらず、褒められることを期待し、翌日には友人の論文を読み、励ましアドバイスをした。先生からは何の言葉もかけられなかった。初めて腸が煮えくり返る感覚を味わった。人をそこまで憎んだことがなかったので強烈な感覚だった。当時の私の日記を読み返すと、およそここには書くことが出来ない罵詈雑言を書き並べていたので怒り心頭だったのだろう。

  と、まあ駄文になったが、結局私は誰かに認められたかったのだ。おそらく、執筆が遅れていた人間を助けたことについて仮に褒められていたら、私も溜飲を下げていただろう。少なくとも怒り心頭、号泣しながら夜明けまで罵詈雑言を書きまくる、とまではいかなかっただろう。食欲が減退したことについても、ストレスがあったことも要因ではあるが、今振り返ると自分の体を痛めつけることで、そういった報われない状況や先生に対し、仕返しというか、私は傷ついているのだということを体現したかった節もあるのではないかと考える。体重が減ってラッキーだね(痩せたとは言ってない)という感じではあるが、己を痛めつけ、復讐的な意味合いを持った減量など虚しいだけである。

 繰り返すが、当時の私は他者から認められたり褒められたかったのだ。1度だけではなく何度も。実際、他ゼミの先生や友人から褒められたことはあった。しかし、肥大化した承認欲求はそれだけでは満たされなかった。飢えて飢えて、まるで砂漠を彷徨う旅人のように満たされることをひたすら希求していた。結局、ブラックホール同然の私の飢えは満たされることなどなかった。

  枯れ果てたのちに悟ったのは、私自身、自分と向き合っていなかったのだからそりゃ満たされないよな...ということだ。他人と比較して生きてきたため、現状の自分、というものを何ひとつ分かっていなかった。何が好きで何が嫌いで、物事はこうあるべき、自分はこうなりたい、という自分なりの信念や目標がそもそも欠如していたのだ。自分なりの生きる指針がないので他人の価値観にひたすら寄りかかり、認められることに固執し、先述したように物の見事に振り回されたというわけだ。

  ある精神科の先生が書いたブログに、自分を大切にするということは、自分に鞭を打ち駆り立てるのではなく、自分を認め、自分への信頼に基づいた欲求で生きていけるようになることだと記されていた。安直な感想だが、本当にその通りだよなと心底感じる。

  究極、承認欲求は満たされることなどない。他者から承認されたいという欲求は生きている限り大小あれどついて回るものだ。しかし、そこに固執し続けると私のように非常に痛い目に遭う。では、どうすればいいのか。結局、自分を自分で認める力を養うしかないのだ。これは甘えだとか自己陶酔ではない。むしろ自分を客観視するという点においていえば非常に現実的な方法といえる。認めるとまではいかなくとも、精神衛生上、自分を卑下することはやめたほうがいいと切に感じる。実際私がそうであったように、卑下するということは自身を客観視することの放棄と等しいからだ。放棄すると、何もかもが見えなくなる。他者から差し伸べられる優しさだとか自分を支えてくれている存在だとか、本来大切にしなければならないものが一切合切思考から消え去る。そして生きる希望が見えなくなる。自分を傷つけるような行動に走る。そこで何か学びを得て起死回生できればハッピーエンドではあるが。

  長くはなったが、私が卒論を執筆して得た学びは以上である。暗いし重いし何書いてんだか分からなくなってきたが、今回得た学びは、私の生きる指針の1つになったのは確かである。ようやく卒論から解放されたが自分の思考の癖から解放されない限り、似たような苦しみは再び生まれる。思考は年齢と共に蓄積されたものなのですぐに変えることはできない。徐々に徐々に、向き合っていくしかないのだ。