あの青春の.7

 卒論の締め切りまで早二か月を切った。私のやっている研究は質的研究といって、例えば大量のデータを取って統計を取り、数的な結果を元に考察を挙げるのが一般的な手法である量的研究とは真逆のものである。量的な研究に比べ、方法も分析の仕方も自由度が高い(ほぼ自己流に近い。フリースタイル。うちのゼミだけかもしれないが。)

 無事に書き終えられるのかかなり不安だが、沢山の人々から協力してもらったので僅かな恩返しとして頑張りたい。

今回は3つ。

「 8/30 今日はAさんと1時間くらい二人で自主レンをやりました。二人だけだったけど自主レンやって良かったです。今日久しぶりにBさんと電話で話しました。少し、Bさんと深い話をしました。うーん、人って…。

  一応名前は伏せてアルファベッド表記にした。自主練をやっていた旨が書かれていることに非常に驚いた。自主練をやるほどの熱意はあったらしい。自分のことながら、なんだか非常に意外だった。

 日記には深い話…とか人間て…とか書いてあるが、たかが13年、生温かい環境で庇護され何一つ不自由なく過ごしていて何をほざいているのだろうかこの娘は。ちなみにBとは家が非常に近い。近いのに加え、そもそも同じ中学校に通っているのだから何もわざわざ電話で金をかけて話すなよという気持ちにはなるが、この頃はスマートフォンも無かったし、ガラケーを持っている友人など1人もいなかった。通信手段が電話しかなかったため、非常にくだらない内容でもやたら家の電話を使って話す人間が多かった。姉ももちろんそのうちの一人である。

 恐らく、今の小中学生は家の電話で連絡を取り合うことなど殆どしていないのだろう、時代の流れとは言え、なんだか寂しいような感じもする。友人の家族が電話に出た時の一瞬の気まずさや、突然友人から電話がかかってきた時のあの妙な嬉しさやら高揚感、家族からかけられる「〇〇ちゃんから電話だよ」の言葉には、表しきれない程の醍醐味がある。

 

「9/1 今日は姉に勉強を教えてもらいましたが、分からないところがあると「何で分かんないの!!」と怒鳴られました。ます×2分かんなくなりました。モオーッ。なんだか筋肉痛にひびきそうです。」

 また懲りずに姉から勉強を教えてもらっているようだが、一切記憶にはない。か弱い妹相手に怒鳴るなんて星一徹も驚きの厳しさだなとは感じるが、何度教えても理解されない歯痒さや苛立ちは、今なら痛いくらい分かる。

 そんなことよりも、「ますます」を「ます×2」と書いているのが非常に気になる。友人と文通をしているようなノリで書いていたのだろうか。非常に懐かしいのだが、当時の文通にはお決まりの省略した言葉「H.K(話変わるけど)」があった。他にももっと沢山あったはずなのだが、H.Kしか覚えていない。中学生の時はやたら便箋とか封筒にお金をかけていた記憶が強い。これも時代の流れだったのだろうか。やり取りした手紙は殆ど処分してしまったため、手元に残っていない。捨てずに取っておくべきだったなと若干後悔を抱いている。到底ネタにはできないだろうが。

 

「9/7 今日は給食におかかが出ました。メチャクチャ美味しかったです。なんでおかかっておかかって言うんでしょうか。おかかおかかおかかおかかおかか…。おかかっていいなぁ。でもこん布が一番好きだなあ。次に、アイス。

1番は昆布なのかよ。

 文章がメチャクチャすぎる。おにぎりの具の話でなぜアイスが出てくるのか。それとも我が家ではおにぎりの具としてアイスを入れていたのだろうか。

 ちなみに言うと今現在は別に昆布は好きでも嫌いでもない。おかかは確かに好きだが。当時の私は本当に昆布が好きだったのだろうか。若干の疑いはあるが味覚も歳を重ねるごとに変わっていくものなのでまぁ事実なのだろう。

 こうやって時を重ねるごとに嗜好というものは変わっていく。人間関係だろうが物だろうが趣味だろうが、当時は好きだったけれど今は全く興味がないとか、嫌悪感すら抱くことなどザラにある。そういった取捨選択で人生は作られていくのだ。もちろん、捨ててきたものや諦めてきたものに関して罪悪感だとか劣等感を抱く必要など微塵もない。人間は今この瞬間しか生きられないのだから。

 おにぎりの具を切り口に人生を説こうとしているあたり、その軽率さたるや、やはり私は昔と何も変わっていない。何も変わっていないのならもう一度昆布を愛せるような気がする。明日の昼は昆布おにぎりにしよう。