夏の暑い日の。

  私はかなり動揺しやすい人間である。物音にすら驚き動揺する。動揺しやすいせいか、感情が表情に出やすい人間である。が、表情が出る隙がないくらい激しく動揺した経験が1つある。あれは私が中学生の頃、夏の暑い昼下がりだった。家族は各々用事があり、家には私しか居なかった。居間で寛ぎながらワイドショーを見ていた時、その人は突如現れた。

「すみません。」玄関から声がする。ド田舎だったため当時の我が家は日中、施錠をしていなかった。つまりは誰でも玄関に入れたのである。対応するため玄関に向かった。そこには50代と思しき男性が佇んでいた。片手には何か賞状らしきものを持っている。はて…。近所の人では無いのは確かである。無論、親戚でもない。では誰なのか。

「私ね、最近越してきたんだけど、お姉さん今学生?」

「中学生ですが…。」

と私が答えるや否や、おもむろに賞状らしきものを広げ始めた。

「大学には行くつもりなの?」

「え、はあ、まあ一応…。」

  今思い返せばこの唐突に現れた中年男性、何から何まで怪しいのだが、何よりもそれに律儀に対応していた当時の自分の危機管理能力を疑う。思い返せば、この時から既に私はポンコツだったのかもしれない。曖昧な私の回答を聞くと

「大学は絶対に行った方がいいから。僕なんてほら、夜間に通って教員免許も取ったから。」と口早に答える彼が広げていたそれは、卒業証明書だった。

「はあ…なるほど…。」と言葉を濁すしかなかった。大学には行くとは答えたが、何をやりたいだとか学びたいだとかそういった指針は何一つ持ち合わせていなかった。高校にすらまだ行ってないのだ。その男性は、私の顔を見上げ「何か勉強で困ったことがあるなら力になるから!」

と告げ、また延々と大学の良さについて語りだし私はただひたすら曖昧な態度で聞く他なかった。

  激しく動揺したのはその数日後である。なんとその中年男性が私を養子にしたいと電話で申し出してきたらしい。私はその場に居合わせなかったため、詳しい内容は知らないがあまりにも加速しすぎだろ…と引いたことを覚えている。何が彼の琴線に触れたのか、未だに分からない。あほ面かいてへぇだのはぁだの、どこか上の空で話を聞いていた人間を養子にしたいと申し出た彼の真意も分からない。さっぱり分からない。

   母が仕事で不在だったため、申し出の電話に出たのは祖父だったらしい。祖父は当時、齢80くらいであった。普段からどこか抜けている祖父ではあったが、さすがに孫を見知らぬ人間の養子にしようなど、許すはずないだろう。そう思っていた。

「じゃあお爺ちゃんが断ったの?」

「いや、お爺ちゃんは『母親に聞いてみます。』って言って電話切ったの。駄目だって明らかに分かるのに。」

  私は激しく動揺した。私は一体祖父にとってなんなのだろうか。何か恨みを買うような真似をした覚えは、2、3個程しかない。しかもそれらは悪態をつくとか無視を決め込むとか、思春期真っ只中の童子に見られるレベルの行為であり、養子に出される程の事をした覚えはない。

  私は激しく動揺した。見ず知らずの人間から養子にしたいと申し出されたことよりも、実の祖父が孫を引渡すことに対し何ら躊躇うことのない気概を持っていたことに対して。貴方にとって孫とは、私とはなんなのか。 

  当時の私はそれを聞く勇気など持ち合せておらず、それから1年後、高校に進学すると同時に私は実家を離れ、高校在学中に祖父は他界した。あの真意を問う機会は訪れなかったわけだが、世の中知らない方がいいこともある。

  実家に帰省し、祖父の写真を見る度にふとあの暑い夏の日の出来事を私は思い出すのだ。