朝食の偶然の③

 動物病院へと急いで車を走らせてる間、私は様々なことを考えた。スーパーで母と合流し、姉が手を洗いに行っている間、母は私を静かに叱りつけた。むやみに拾ってはいけないこと、もし病気があった場合治療費に相当な金額がかかること、我が家には先住猫がいるため、病気があったら飼えないこと、その場合里親を探さなければならないこと。

 結局のところ、お金だとか良好な環境が無ければこの子猫を救うことはできないし、何より先住猫への影響を考えなければならない。そういった考えが頭になかったわけではない。だが、剥き出しになって放り出された命を、私も姉も無視できなかったのだ。反射的な行為、私たちのそれは考えがない浅はかなものだったともいえる。

 命とお金と。天秤にかけられるものではない。だが、お金がなければ病気を治すことも生きながらえることもできないのだ。当たり前のことだ。小学生でも分かる。おおよそ20代の成人済みのやつが書くことではない。だが、私はまるで分かっていなかったのだ。何かの命を助けた時、そういった現実が立ちはだかることを。その責任をきちんと背負わなければならないことを。その責任を負うことができなければ、救ったことが罪になることを。

 今まで生きてきた中で突き付けられたことがない類の現実だった。強烈だった。どうしようもない不安に襲われた。それでも、バスケットの中で静かに必死に生きている子猫を救ったことが間違いだなんて思いたくなかった。

 病院につき、獣医に診てもらったところ、生後半年くらいであること、平均に比べかなり痩せていること、足は骨折していないため、打撲かほかの猫に噛まれ腫れた可能性があること、血液検査などは1か月後にやった方が結果が明確に出ること、などがわかった。

 猫の白血病エイズは空気感染はしないが、毛づくろいをし合ったり匂いをかぎあったりするとなると感染の可能性が高まるとのことで、現在、その子猫は実家の私の部屋に隔離されている。母と姉から多大な愛情を注がれながら。

 猫が我が家に来て早3、4週間。薬と母や姉の献身的な世話で、子猫の前足の腫れは引き、我が家に来た当時は数歩歩くだけで疲れ、すぐに横になってしまっていたのに、今や走ったりジャンプしたり、隣にある姉の部屋に行こうとしたりと、じっとしていることがないらしい。

 命が金がと書いてきたが、つまり何が言いたいかというと私は無力なのだ。あの時も今現在も。県外に住んでいるため、あの子猫を部屋で飼うことも世話してやることもできない。病院に付き添うこともできない。すべて母と姉の財力と世話と愛情があって成り立っている。姉や母がいなかったら、あの子猫を野に放すことしかできなかっただろう。

 小さな命が突き付けてきた自分の無能さが、今でも静かに腹の底に横たわっている。だからせめて、私は書こうと思うのだ。子猫の行く末を。現状を。そうやって、子猫の軌跡を書き残していくことが、唯一私ができることだと今は信じている。